2016.02.27
然るべき意志
今年も早2カ月が過ぎましたが、あらゆる分野で、非常に大きな出来事が連続して発生しており、まさに人々の脳内の処理能力が追い付かない状況に在ると思います。時間のスピードがぐんぐん加速中のため、今までの一年がまるで一カ月に濃縮されて来た位の感覚です。私たちの処理能力が追い付かず、1つ1つの事柄に対する一定の評価ができないままに、また次の出来事が重なって来るので、確かに意思決定が難しい時代になって来たのでしょう。けれどもそれは、モノ凄いスピードで車窓を流れゆく目先の風景を追っている為であり、もっと先の彼方後方に在る山々や空、太陽や月、夜空の星々へと視線を上げれば、その動きはまるで静止しているかのごとく、ゆったりとしています。要は、大きな流れの方向性さえ解かれば、列車のスピードがぐんぐん増しても、行くべき道に迷いは生じないはずです。やはり人生で最も大切なことは、遠い彼方に在る大きな山々を見て、今(此処)を真剣に生き抜くことでは無いでしょうか。
現状は、人間(人類)のあらゆる所業に対する天(自然界)の意志であり、そのことが腹に落ちさえすれば、実は時代の流れは極めてシンプルで明瞭なのかも知れません。否むしろ、迷いからの解放のし易い時代であるのかも知れません。宮澤賢治の童話は、日々の生活(日常)と宇宙空間が混然一体と成って存在していました。徳川家康が、「江戸」と云う長きに渡る平和なる世界の礎を築くことができたのも、何かきっと(実際の)目には見えない大きな山々(宇宙感)を「観た」からではないかと想像します。心理学者のアドラーの云う最終結論とは、「幸福とは、共同体感覚を持つこと」だそうです。人間は広い世界の一部であり、一体である。その広い世界とは、「宇宙」である。家族、地域、会社、国家という小さな共同体の中で(仮に)苦しくても(嫌われても)、全ての人間は(より大きな)この広い宇宙の中に存在しており(優しく包まれており)、その宇宙の一部として、宇宙と完璧な共同体を形成している。その感覚(=感性)を持つことができれば、人間は誰もが(一瞬で)幸福感で満たされると。
今こそ、「大きすぎて分からない」「広すぎて分からない」「見えないから無い」「聞こえないから無い」を、積極的に「分かる(解かる)」「分かろう(解かろう)とする」への自己変換に努力することが、このモノ凄いスピードの時代にとって、一番大切な意識の持ち方ではないかと思います。そう成れば、モノ凄いスピードで車窓を流れゆく風景の先に観える、遠い彼方の「富士の山」だけが目に映るでしょう。先日、伊豆へ行く列車の中から見事な富士山を目にしました。富士山は、いつも(当たり前ですが)富士山のままです。あの美しく均整のとれた完璧なスタイルは、一体誰がデザインしたのでしょうか。所謂「自然に」「偶然に」完成したのでしょうか。もしそうであるとしたら、「自然」「偶然」とは、まさに「然るべき意志」を持った存在に違いありません。その然るべき意志をもった存在は、宇宙全体に在りて、此処にも在り、自身の心中にも在るのでしょう。そして当然、建物の建設現場にもあると考えます。
私たち丸二では、現場を(ある種の)「神聖な場」として捉えています。日々(心中で)一礼をして入る心構えを大切にしています。実際に土地や建物には、その場特有の「然るべき意志」が在るように感じられます。その「然るべき意志」に対し、きちんと御挨拶をして、日々の工事作業をさせていただくという思いが大切だと考えるのです。それは、車窓から遠い山々を観ることと同じような気がします。実際に目の前で起こる工事自体の現象の向こう側に、きっと何か不動の大切なものが在ると感じられるからです。それは、住む人の健康や幸福を願う気持ちだったり、元々自然界からできている建材への感謝だったり、そして、その土地や建物に宿る「然るべき意志」への敬意だったりします。要は、姿かたちの無いものです。でも、そういう意識を持つのと持たないのとでは、天地の違いが在るように感じます。私たちは、この過ぎゆく日々の中で、常に遠い不動の山々を観る心眼をもち、このスピード時代をゆっくりと歩んで行きたいと思います。
※寅さん
最近、映画「男はつらいよ」全48作の中から、数本の名作をDVDで鑑賞していますが、本当に何回見ても面白いものです。お話の展開は水戸黄門と同じで、基本的にいつも同じ雛形ですが、きっとそれが良いのでしょう。寅さん(渥美清)は(毎回)日本全国津々浦々を旅しながら、出会いと別れを繰り返しつつも、必ず故郷の葛飾柴又へ帰って来ます。その柴又には帝釈天(題経寺)があります。題経寺の御前様(笠智衆)も、寅さんが好きみたいです。柴又の日々の暮らし(生活・家族)と旅(人生・一期一会)と帝釈天(神仏)が、この物語を構成する全てです。そこには日本人の美徳である苦労と努力が滲み出ています。同時に、その物語を懸命に生きる人々の姿を(微笑みながら)眺めている「然るべき意志」が見え隠れします。そして思うのです。私も、私自身の物語の中を、こうして確かに生きているのだと。