2016.01.20
芸術と道標
昨年の暮れに、NHKの「新・映像の世紀(第3集)~時代は独裁者を求めた」を見て、あらためて戦争の悲惨さと愚かさに恐怖しました。同時に、あの時代、民衆が独裁者を求めざるを得ない程、世界が異常な空気に包まれていたことにも感じ入りました。今の平和な日本に生きる身としては、本当の意味でその実感を持つことは出来ないと思います。けれども、私たち人間には想像する力があります。過去から学び、想像力をもち、二度とあのような時代に戻らないことを決心する以外ありません。日本も苦しい戦争の時代を経て、やっと平和な道を歩み始めたばかりです。この道を歩いて行きたいと思います。
番組の中で、ヒトラーがアメリカの自動車王であるフォード氏の本を読み、激しく心酔していたことを知りました。そのフォード氏が反ユダヤ主義であったことが、実はヒトラーのその後に大いに影響を与えたと言うのです。もしそうであるならば、仮にフォード氏が反ユダヤ主義ではなかったとしたら・・・と、思わずにはいられません。そしてフォード氏もナチス政権を支持しました。ヒトラーはポルシェ氏と共に自動車開発を始め、民衆が乗れる車の普及のためにフォルクスワーゲン社を造り、以後、様々な技術革新に力を入れました。大陸間弾道ロケット等の開発も世界に先行しました。そしてこれらの技術は、ドイツ敗戦後、米ソに奪われて行ったのです。
言うまでも無く、ヒトラーは選挙によって国民に選ばれ、正式な手続きによって首相となり、議会によって「全権委任法」を成立し、合法的に独裁を手にしました。このことは未だに信じがたい事実です。その結果が、第二次世界大戦とユダヤ人迫害へと向かいます。彼には何か集団催眠的な能力があったのでしょうか。たった一人の男の偏執狂的な思想によって、国家が崩壊して行く怖さ。同時に、そこから多くの技術革新が生まれたと言う事実。ココ・シャネルも彼に協力したそうです。また、アウトバーン建設を全て人力で行わせ、多くの失業者を救ったという面もあります。これらの力が、「善だけ」の方向へ向かっていたとしたら、世界は大きく変わっていたのかも知れません。
その時代のドイツには大指揮者フルトヴェングラーがいました。フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンのシンフォニーはまさに神憑り的で、未だに多くの(当時の)実況録音盤が世に遺されています。中でも、戦後再開されたベルリンフィルとの復帰演奏会(1947年)での交響曲第5番は、言葉では表現できない程の精神の爆発が在ります(この曲の私のベスト盤です)。そのフルトヴェングラーも、ヒトラーに対して批判的立場でありながら、ナチス政権のための演奏会に協力せざるを得ず、それが故に(後に)親ナチスというレッテルを貼られ、一人の芸術家として極めて苦しい状況に追い込まれました。番組の中でも、ナチスの大きな旗の下で「第9」を指揮するフルトヴェングラーの姿がありました。けれども政治と音楽は全く無関係です。彼のベートーヴェンを聴けば、それが分かります。全人類の平和を願い、苦悩から歓喜へと至る道を歩むベートーヴェンとフルトヴェングラーの精神は、時代を超えて確かに共鳴し合っていたのです。
さて、年が明けて(昨年のお正月に引き続き)今年もエレファントカシマシの新春ライブ(東京国際フォーラム)へ行って来ました。クラシックコンサートが基本の自分自身にとっては、勇気がいることですが、何でも経験です。でも、もう少し音量を下げて欲しいなとか、ゆっくり座って聞きたいなと、素直に感じるところもあります。ただ彼らの場合は、余計な演出も無く、静かに聴いて終わって拍手という曲も多く、そういうところが好きです。
今回のコンサートは、昨年発売されたニューアルバム「RAINBOW」からの全曲と共に、いくつかの古い曲(「偶成(ぐうせい)」「曙光(しょこう)」「おはようこんにちは」等)を聴くことができました。特に嬉しかったのは、「偶成」という曲です。歌う前に「お正月には相応しくないけど、聞いてください」との説明がありましたが、とても長く、内省的で、物寂しく、儚く、けれども美しい曲です。この曲は彼らの(今から25年程前の)4枚目のアルバム「生活」に収録されたものです。この「生活」というアルバム自体、(全く人には勧められない)異様な陰鬱性に満ちていて、通常のロックとは別物の(例えば)唱歌のような、演歌のような、あるいは浪曲のような慟哭の叫びで、そこで歌われている内容も、孤独な一人の青年の(日々の)苦しい生活や暮らしばかりです。
作詞作曲の宮本浩次氏がまだ22、3歳の頃に、なぜこのような暗く老成の曲を書いたのか。そんな興味もあって、彼らの音楽に興味を持ったのですが、今回は生でその中の一曲である「偶成」を聴くことができ、静かなる感激と深い感動を覚えました。そしてここで気づいたのは、彼らの音楽は「歌曲」なのだと言うことです。己の偽ざる内面(心境)を、腹の底から、大きな口を開けて、時に慟哭の叫びと共に、朗朗と歌い上げること。要はシューベルトの「冬の旅」と全く変わらないのです。ここに何かクラシック音楽と通ずる世界観が在る様に感じました。「偶成」という曲では、最後に「ああ うち仰ぐ空のかなたに きらりと光る夕陽あり」「流るるドブの表を きらりとさせたる夕陽あり」「俺はこのため生きていた ドブの夕陽を見るために」と歌われます。時はまさにバブル絶頂期。その時代の波に乗ることができなかった一人の孤独な男が、静かに夕暮れ時のドブを眺めている・・・。確かにお正月向けの曲ではないですね。
「歓喜とは、苦悩を超えた先に在るのだ」とベートーヴェンの音楽から学びました。「歓喜とは、今すでに此処に在るのだ」とモーツァルトの音楽から学びました。両方とも真理の様な気がします。石川啄木の詩にも、宮澤賢治の童話にも、深い悲しみの底に横たわる大いなる喜びの芽を感じます。きっと音楽も含めて、全ての芸術はそのような構造に成っているのでしょう。そしてその構造は、私たちの人生や自然界とも相似形のはずです。だからこそ私たちは、優れた芸術に涙を流し、美しい自然に感動するのです。そして私たち一人ひとりの人生もまさに芸術そのものなのです。
人は、我が苦悩の先に在る喜びに向かう途中で、今すでに此処に在る喜びに気づきます。その道は一人ひとり違います。けれどもそれが故にオンリーワン(オリジナル)の道なのです。きっと優れた音楽や詩や絵画たちは、私たちの良き道標となって、その歩みを助けてくれているのかも知れません。ナチスの旗の下でベートーヴェンを振るフルトヴェングラーにも、50歳に成っても益々鬼気迫る演奏を見せるエレカシにも、「やらねばならぬ」という天に向けての強烈な意志を感じます。多くの人の人生のために(自らが)良き道標に成ることが芸術家の使命なのだと思います。ヒトラーにも素晴らしい絵の才能があったそうです。その能力を世界のための「良き道標」に使う道もきっとあったのでしょう。けれどもそれが叶わない時代だったのかも知れません。
今の日本に生きている(生かしていただいている)ことの幸せをあらためて感じます。エレカシの歌詞には、「富士山」「武蔵野」「お日さま」「月の光」等がよく出てきます。日本の原風景に対する憧れが、世界の良き道標に成る時代が来ることを予感します。今年はいろいろな意味で、あらゆることが反転し始める年に成ると思いますが、日本人が「感謝と報恩」さえ忘れなければ、時代の良き道標と成って、「歓喜の歌」の鳴り響く日本や世界を造り上げることができると信じます。そういう道を愚直に歩んで行きたいと思います。